知行合一 

(1)王陽明の「教える喜び」(2004年 1月号)

王陽明は『児童教育』の中で、教育の根幹にふれています。いにしえ古の教育者は、人間として倫理観を教えたが、後世になると古典の訓話や暗記、文章中心の学問になってしまったといいます。
児童の心は草木の新芽と同じようなもので、自由に伸び伸び遊ぶことを楽しみとし、束縛されることを嫌がる。
だから子どもたちが何をしたいのか、その欲求を理解し心から喜ぶようにさせると、自然に進歩する。児童にとって歌・ゲーム・遊びは大切なことである。それはやる気を起こさせ、内なるエネルギーを発散させ、跳んだり叫んだりしたい気持ちを充足させる。
礼儀・挨拶・しつけは規律ある生活態度を養うためだけでなく、きちんとした姿勢は、血液の循環を良くし身体を強健させる。読書は認識力を高めるだけでなく、志を高め人間性を養う。
最近の教育(中国は明の時代、西暦1500年前後)は、受験のために児童を束縛するだけで、一人の性格や個性に基づき、その能力を最大限に引き出したり、礼儀や道徳心を教えたりしない。
単に頭が良くなることを求めるだけで、豊かな人間性を導くことをしない。ただ学校・勉強・知識・試験の成績で縛りつけ、児童を囚人のように取り扱う。だから児童は学校をまるで地獄のように思って、進んでその中に入ろうとはしない。
教師をまるで仇のように思って会おうとはせず、教師の動静をうかがってこれを避けるようになり、自分の行いをごまかして好きな遊びをし、うまく人をだまし、心はいよいよいやしく軽薄で愚劣となって日に日に低俗に向かう。
これでは、彼らを悪に駆り立てておきながら、善行をするように求めるようなものだ。王陽明はこのようにいっています。

                
『明鏡論』でも心を養うことの大切さを次のように述べています。
「聖人の心は本来明鏡のように、少しのちり塵やあか垢もついていないが、私たちはよく磨いて自分の塵や垢をきれいにふ拭かなくてはならない。
鏡が物を照らすように努めているけど、その鏡自身が曇っていることに気づかない」
私は人に教える根本的な立場がここにあるように感じました。自分の心が歪んでいたり、曇っていたりしたら学んだことも歪んで理解し適当にしか解釈しません。
このような心で子どもたちに接しても、彼らに正しいことが伝わるはずがありません。しかし、心中の賊を破ることはむずかしいことです。心中の賊を破るためには、学問に対する志を立てること、そして人欲を取りさって天命に従うことが大切だと王陽明は語ります。

       

天理とは何かとか何が正しく正しくないか、それがわからないから、四書五経に求めるしか方法がないという。四書五経とは、孔子や孟子の著書で『論語』『孟子』『大学』などをいいます。朱子という人が、儒教(孔子、孟子の教え)の基本として、9冊の書物を定めたのです。
それを前提に、学ぶことの究極は我が心(良知)を極め尽くすことだと教えます。親孝行・早起き・激務・人のために尽くす・正しい行いをする。こうしたことを極め尽くすと、その様な行いをしていることすら気がつかなくなる。
そうなると心が始めて楽しいと思うようになる。それが知行合一だと言います。私は心の底から、学ぶことが好きになりました。それは、王陽明と出逢ったおかげです。

[ 2007/12/22 13:28 ] 未分類 | TB(0) | CM(0)

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