、無業青年に対するジョブトレーニングの真最中です。
本日で8名、明日で今回の10名がワンサイクルを終えます。
10時から17時まで、さすがに疲れますが、彼らが生き生きしていく姿を見るたびに力が湧きます。
今日は、朝からの雨でした。
朝、心の塾セミナーのレジメを抱え、傘を差しながら、いつものコースを歩きました。
講義の大事なポイントを暗記しながら歩きます。
普段は一歩ごとに、”ありがとう”をいいながら歩きます。
自宅から店までは八千歩ですから、ありがとうの数も八千回です。
言い始めてから,その数は一千百五十万回になりました。
瞑想したり、レジメを暗記したりして歩く日も少なくありません。
足を火傷して歩けなかったこともあります。
それでも継続の力は大きいもので、知らずの内に一千万回を越えたのです。
この子は世の光
西本幸造さんは昭和二年生まれ、生きていれば80歳になります。
長野県奥野村というところで生まれ育ちました。
ここは豪雪地帯で、もっとも貧しい村の一つです。山の急斜面が畑で、ここで家族そろって畑仕事をしていました。
しかし幸造さんは、とにかく勉強ばかりして一切遊ばず、友だちもつくらずクラスメート全員が競争相手と考えていました。
高校も一番で卒業し、東京の大学に入学しました。両親、親戚、村人は「この村に錦を飾ってくれ」と激励しました。
「勉強の虫」と大学でもいわれ、日本有数の電気機械会社である日本GKに、50倍の競争率を突破して入社できました。
そこでも競争心をもやし、同期、ライバル、先輩を抜いてどんどん出世していきました。そして45歳で重役になりました。
47歳の時社長が病死、遺言で最も若い幸造さんが社長となり、業界で大きな話題となりました。
50歳の時に妻が病死し、長男はアメリカ、次男は家出して行方不明と、家族はバラバラになっていました。
お手伝いさんもなかなか長続きせず、家は幸造さんだけでした。
東京郊外の高級住宅地に800坪もの敷地、、豪華な邸宅に住み、高価な調度品に囲まれていました。
しかし使っている部屋は八畳間一つだけで、あとの部屋は埃まみれです。
デパートの地下食品売り場で買ってきた惣菜を一人で食べ、訪ねてくる友人もいない、そんな生活でした。
クラスメート、会社の同僚、同業者は皆敵であり、ライバルでした。こんな寂しい生活でしたが、まったく気になりませんでした。
何故なら仕事が生きがいだったからです。
57歳のとき、大病にかかりました。ガンです。
病気になってから彼は、通院や仕事の合間に障害児の作品展示会などを見るようになりました
長男の子である初孫が、ダウン症という先天性の障害を持って生まれてきたからです。
幸造さんは障害児とは無縁、自分とは関係ないと思っていました。
しかし、自分が病に侵され初めて、障害を持つ孫とその家族のつらさがわかってきて、障害児の作品を買い、それを八畳の部屋に飾ったのです。
幸造さんはそれらの作品を見て、初めて涙を流しました。何かがおかしい。
「金持ちになりたい」と、ただそれだけを目標にがむしゃらに走ってきて、お金も地位も立派な家も手に入れました。
しかし、さびしい。家族も友だちも趣味もない、そして健康どころかガンになり、食欲もない。
幸せとは何か? 初めて考えてみました。そして、民間の知恵遅れ児童の施設を見学する気になり、訪ねてみました。
どの子も光り輝いていました。損得、ライバル、敵は一人もいない、純粋な人間の喜びに満ちあふれていました。
その夜、幸造さんは胃ガンの痛さにたえられず入院し、危篤状態の中で息子に電報を打ってもらいました。
「できれば孫に会いたい、連れてきてくれないか」と。
そして「私の生きる目的は間違っていたようだ。私が欲しかったのはお金ではなかった。地位や家、財産でもなかった。
私が欲しかったのは友人だった、家族だった、家族の愛や人の情けだった」ということに初めて気づいたのです。
四歳の孫がアメリカからやって来ました。幸造さんは声も出せない重い状態でした。突然、孫が叫びました。
「じ、てん、じ、てん」
「じいちゃんは天国へ行く、僕はその天国から来たのです」
孫の叫びが、幸造さんにはそう聞こえました。
「じ、てん、じ、てん」幸造さんはその言葉を天の声のように感じました。天がこの世につかわせた「救世の子」、それがこの子、この子は世の光。
幸造さんの目は涙で濡れ、静かに手を合わせて死んでいきました。58歳の暮れのことでした。
『この子らは世の光なり』伊藤隆二
(1)教育に教科書はない
その日、昭和18(1943)年10月9日は赤松小学校の遠足の日。6年生約200人が後川を渡って、歌人の北原白秋の生地で有名な福岡県柳川市へ徒歩で出掛けました。
悲劇はその帰途、生徒を乗せた渡し舟の一隻が筑後川を横切って、渡し場に着く直後に起きました。船が浸水し転覆して、昼前から降った雨で水量が増した筑後川に、一般客とともに生徒70人が投げ出されてしまったのです。
副田美代次先生(当時34歳)は、濁流に飛び込むと手に触った生徒たちを手当たり次第に救助船や岸辺で救い上げました。革靴にゲートルを巻き国民服姿のため、泳ぎが自由にできません。先生の口からは「(人数が)まだ足らん、まだ足らん」と言う呪文のような声が聞こえたといいます。
14人の子どもたちを救ったところで副田先生は力尽き、6人の生徒たちと共に筑後川に呑み込まれてしまいました。水死体であげられた手には、国民服のボタンが握られていたといいます。ボタンを外す余裕もなかったため、引きちぎって脱ごうとされたのでしょう。
赤松小学校に建てられた顕彰碑の台石には、当時の全校児童約1,200人が、ひとりひとり自分の氏名を書いた小さな石が埋められています。先生と子どもたちの慰霊祭が終わった後、夕焼けの中を筑後川までその石を拾いにいったそうです。そして、合掌しながら石を積み上げて慰霊塔をつくりあげました。
今でも赤松小学校では学校行事で郊外に出掛けるときに、先生の碑の前で「いってきます」と無事を誓うことを指導されているそうです。
「私の名前も、担任の名前も卒業生は五年もしないうちに忘れてしまいますが、副田先生の名前だけは生徒たちは忘れないのです。これがうちの学校の誇りです」
校長先生の言葉です。
そして、副田先生に助けられた14人の生徒のうちひとりは、現在佐賀で教鞭をとっておられます。副田先生に対する一番の恩返しは、自分が先生になり立派な子どもを佐賀で育てることなのだとおっしゃっているそうです。
『自分が好きですか』林覚乗
今日は、日中店を抜け学校講演に出掛けます。
高校生300名に講話する機会をいただきました。
「人間が生きる目的ー自分の未来を自分でデザインする」 これがテーマです。
妻一人に店を任せることを心配して、子どもが手伝ってくれます。
ありがたい思いで、出掛けます。
一人でも多くの若者に、志や人生の素晴らしさを伝えてきます。
今回の講演料は、交通費を引くと数千円です。企業研修では十数万円いただきます。
でもどういうわけか、子ども達に話すときが、何十倍の準備や努力を要します。